文明としてのツーリズム - 神崎宣武

文明としてのツーリズム 神崎宣武

Add: wewisop54 - Date: 2020-11-20 04:03:10 - Views: 8308 - Clicks: 2590

岡山県出身。 武蔵野美術大学卒、國學院大學文学部卒、近畿日本ツーリスト社に勤め、同日本観光文化研究所事務局長、岡山県宇佐八幡神社宮司。. 3 形態: vii, 253p ; 18cm 著者名: 神崎, 宣武(1944-) シリーズ名: 岩波新書 ; 新赤版 884 書誌ID: BAISBN:. 神崎宣武編著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : 人文書館,. もちろん、皮膚病などの病理的な治療を温泉に求める例もあります。ただし、それはかなり上層階級に限っていたと思います。 京都の貴族が有馬温泉に行ったという伝説が残っています。水と空気がきれいで、景色も良い場所に行って気分転換するという転地に意味があり、お付きの人間がつき従って、何不自由ない生活をするわけですから、今の言葉で言えば温泉リゾートですね。それができるのは上層階級で、庶民が有馬へ行き始めるのは江戸時代からで、寺社詣でがらみの周遊旅行が登場してからのことです。 このように温泉利用の中に上層の療養と、農村の保養が長らく並行して行なわれていた、というのが日本の温泉事情だったのです。. 江戸時代も元禄以降になると、世情が安定します。年貢の徴収率も7分3分から3分7分に逆転して、個人の所得が増えました。個人の所得が増えると使い途はだいたい決まっていて、旅行なんですね。 江戸時代は、旅館と食事とが結びついて、一泊二食の旅という概念が定着する時代です。温泉のない所で旅館をやろうとすると、水代と薪代に経費がかかって高くつく。やはり温泉旅館というのが、経営上でも都合がよかった。 ではなぜ、旅館と食事が結びつくようになったのでしょうか。江戸時代には、旅人を一括管理する制度、「宿改め」がありました。暮れ四つ(午後8時)に宿改めをしたとき、一人でも外出していると宿の主人の責任になって営業停止にもなりました。この宿改めは抜き打ちで行なわれたので、旅人を外で飲み食いさせるわけにはいかず、宿で食事を用意するようになったのです。一泊二食のスタイルが生まれ、みんなが四六時中同じ顔をつきあわせて食べることになる。そこで、「まぁ今日ぐらいはパーっとやろう」と、宴会が始まるのも自然な流れです。そして、宴会の開始時間をそろえるためにも、大きな浴槽で一気に入浴させてしまうというのは、合理的な考えだったわけです。 温泉湯治といいながら、実は温泉立ち寄り旅行が行なわれていたのが、江戸時代中期以降です。湯量があり、風光明媚、人口の集住地や主要街道に近い所に旅館街が発達します。そうなると温泉湯治も、1週間も10日も滞在するという性格ではなくなります。例えば、江戸から伊勢参宮して、帰りには中山道を通り温泉に寄っていこうとなる。温泉は1泊2日で多目的旅行の一つになり、夜にはハイライトとして宴会が行なわれました。 この当時の周遊旅行成立の裏には、「御師(おし)」の存在があります。御師とは寺社詣でを手配する総合旅行業のようなもので、自分の縄張りを持ち、各寺社ごとに系列化していました。遠隔地をまとめる頻度は少ないけれど、範囲はほぼ青森から鹿児島まで広がっていました。例えば伊勢神宮の門前には、最盛期で670人ほどの御師職がいました。つまり、今でいえば670の旅行業者があったということです。 彼らは全国に出向いて、伊勢講をつくらせました。講費を積立てさせ、講費の中から3人とか5人を輪番で、あるいは4つ5つの村を合わせて20人、30人ぐらいの団体にしてお伊勢参りを企画しました。こういう庶民の旅が発達す.

近代ツーリズム 近代交通で快適性が高まり選択肢が多様に広がり、食が楽しめるようになった旅。 その土地の名物や特産を楽しむ。 (以上、神崎宣武「旅と食」) 現代ツーリズム 「食」はその場所独特の文化であり、したがって観光資源である。「食. - 日本の食文化史 石毛直道 著 年1月31日 滋味、栄養たっぷりの論考 評者神崎宣武=民俗学者 本書の帯で「コメはいつ主食になったのか」と問う。 稲作の伝来については、諸説がある。が、著者は、日本の稲作は長江下流デルタ地帯に起源する、という立場をとる。 たとえば、石包丁と. 柳田國男は、「旅はタべである」。タべは「給え」「たまわれ」の古語であり、行く先々で「タべタべ」と物乞いをしなくては、旅が成り立ちにくかったという。また、トラベル(travel)はトラブル(trouble)を語源にしている。人はなぜ旅を「食う」のか。旅は難儀であるがゆえに、旅人をし. . See full list on minpaku.

神崎宣武著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : 角川学芸出版 東京 : 角川グループパブリッシング(発売),. 世界の酒文化と日本の酒文化を具体的に見てみることにします。 チベット、ブータン、ネパールなどには、ヒエでつくった粒酒が現存します。現地では、いまも箸で食べているようです。 この粒酒はなかなか食べにくいので、孟宗竹を輪切りにした筒に粒酒を入れ、上から湯を注ぎ、浸出した酒を細い竹をストローにして飲む方法が、いまもみられます。これは、我々のお茶の飲み方と原理は同じで、照葉樹林文化の一つだといわれています。 また、ウガンダでも、北ベトナムでも、植物の茎でストローをつくって、一つの壺に入った酒を、みんなで一緒に飲むのが、昔からの習慣として一つの文化になっています。 日本では、神に捧げた酒を一つの大杯に入れ、みんなで回し飲むという直会(なおらい)が日本古来の文化として定着していきました。 神人共食のナムリアイ(嘗会)の神事が、日本の宴会のルーツです。これによって、サカナ(酒菜)というものが生まれ、一献、二献と酒の杯が変わる度に、するめ、あわび、汁物、などと供される酒菜も変わり、その組合せを「献立」というようになりました。これが後、宮廷料理へと発展、さらに後世、寺院の精進料理、武士社会の本膳料理、茶人達の懐石料理などが生まれていったのです。 神社の直会の膳には、神酒(みき)とそのさかなの神饌(みけ)が並びます。直会の膳のような古代の神に捧げる供物には、サジと箸がついていましたが、そのうち、直会の席では、箸があるだけで、サジがなくなっていくのです。 また神酒を呑むカワラケはいっぺん使ったら、二度と使わないのがしきたりです。たとえば、伏見の稲荷大社の大山祭では、神事が終わると、飲み干したカワラケを谷に向かって投げすてるカワラケ投げが行われる。平成天皇即位の大嘗祭の時も、古式ゆかしい祭殿が宮城の一郭に新たに建てられたましが、式典が終わると、惜しげもなく、取り壊されてしまった。ここに日本人のけがれの概念や、常に新しいものを尊ぶという心がうかがえるます。この考え方が酒の質や、酒文化の方向をもきめてきたと思われます。 東大寺の結解(けっけ)料理では、たくさんある東大寺の荘園の決算が済んで、ヤレヤレとお坊さんたちも「棒のもの」と称する般若湯(酒)を飲むのがしきたりとなっています。 武家の本膳料理の一例として、信長が家康を供応した時の料理には、近江の名物フナズシ、瀬戸内海の名物タコなども並. ブンメイ トシテノ ツーリズム : アルク ミル キク ソシテ カンガエル. 近年、あちこちでよく引用されるのが、坂口謹一郎先生の名著『日本の酒』に載っている次のような言葉です。 「古い文明は必ずうるわしい酒を持つ。すぐれた文化のみが、人間の感覚を洗練し、美化し、豊富にすることができるからである。それゆえ、すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持ち主であるといっていい」 この文は、私もこれまで何べんも読んだり、引用したりしていたのですが、最近、ここでいわれている「文化」と「文明」はどうちがうのか、どういう関係にあるのか、ということが気になり出しました。民博の吉田集而さんは、その論のなかで「文化の酒」が「文明の酒」へと次第に変わっていくことに言及されています。今回、私も「文化の酒」と「文明としての酒」の対比に重点をおき、その観点から「酒の本質」について少し考えてみたいと思います。.

8 形態: 175p ; 27cm 著者名:. 文明としてのツーリズム 歩く・見る・聞く、そして考える/神崎宣武【編著】. ここで、文化と文明をさらに具体的にイメージして頂くため、京都と東京という二つの都市の本質を対比して考えてみようと思います。 昔から京都というところは、多くの矛盾をはらんだ、きわめて非合理な都市といえます。しかし、その非合理性がむしろ人々に安心感を与えている場合も多いようです。もともと京都には、王城だという誇りがあり、いろんなハレの行事やお祭りも他の都市よりずいぶんと多い。その底辺には1200年つづいた「上方(かみがた)文化」があります。しかも、町衆の生活文化や、美意識のレベルは高く、その洒脱な遊び心に裏打ちされた、きわめて洗練された文化が息づいています。 ただ、そうしたものだけでは町は生きていけない。やはり経済の活性化がないとダメです。その経済効果をあげる方策の一つとしてつくられたのが、今回の新京都駅ビルの建設だといえます。「これでは京都の伝統と景観が壊れる」という激しい反対論がある一方で、若い人々には結構人気があり、予想以上の集客効果をあげています。こうした伝統的文化と未来をめざす文明とのせめぎ合いの中で、京都という都市は、いまや「平安京」から「平成京」の創設をめざし、京の再生へと動き始めているのです。 一方の東京はどうか。人口百万といわれた江戸は、270年にわたって確固たる伝統を築いた街ですが、そこには全国300に及ぶ大小各藩の大名につかえる単身赴任のサムライが多く、結果として、男性が65%以上というきわめて特殊な街になっていました。その上、「上方の酒」だけではなく上方の文化のすべてを受け入れ、江戸では京や大坂の「下り(くだり)文化」が栄えた。それが、明治維新になって「舶来文化」にすり替わる。たとえば、明治初年、延べ500人を越す御雇外国人が、東大の教師として赴任してくる。司馬さんに言わせると「明治政府が意図した通り、それ以後、東京は近代日本の文明の配電盤になった」というのです。 いまや1200万人というきわめて大きな人口をもち、毎日がハレの日のようになっているのが現在の東京です。最近、大阪の吉本興業がなぐり込みをかけ、話題になっているのも、東京がいまも地方に対する文明の配電盤であり、きわめて合理的な文明都市であることの証明だといえましょう。 ここで「京都」を「日本酒」に、「東京」を「ビール」に置きかえて考えてみるのもおもしろいと思いますが、いかがでしょうか。. 『文明としてのツーリズム―歩く・見る・聞く、そして考える―』 神崎宣武編著 人文書館発行 定価2,100円 はじめに・・・旅と観光へのまなざし/神崎宣武.

『文明としてのツーリズム』の発行を記念したシンポジウムを行ないます。 また、「第14回旅の文化賞」 の表彰式ならびに「第14回公募研究プロジェクト」の採択発表式も開催します。. 農閑期の湯治も、温泉をとらえる上で忘れてはならない重要な行事です。 民俗行事に、「泥落とし」や「鍬洗い」、「鎌洗い」という言葉があります。これは稲作文化からきた言葉です。集約的な共同作業で行なわれる稲作は、雨が降る時期に一気に田植えをするし、霜が降りる前に一気に刈入れをします。こうした共同作業は、親族や「結」や「講」などと呼ばれるような集落内の集団で行なわれたため、作業が終わって一段落した後に、今風に言えば「さあ、打ち上げをしよう」ということになり、手近な保養施設である近くの温泉に行く、というのは、ごく自然な成り行きだったのだと思います。 日本列島は火山帯の上に乗っていますから、自然の条件として、温泉が各地に分布していて、行きやすいという条件もそろっていました。まあ、稲刈りの後は祭りや冬への備えがありますから、やはり行事化するのは田植えの後になるでしょう。 では、同じ稲作文化圏である他の地域に、日本の農村のような温泉保養が見られるでしょうか。 東南アジアでは二期作が可能なため、作業の時期が少々ずれても収穫にそれほど影響がありません。そのため、日本のような共同作業の発達がなく、みんなで一斉に保養に行くという形態はありません。 また、中国の雲南省あたりは気候条件が日本と近いのですが、残念ながら温泉場が少ない。このように、日本で農事と温泉が結びついたことには、好条件がそろったという理由があるのです。 温泉場が、歩いて半日程の所にある地域では、これが大いに発達します。誰が家に残って、誰が温泉に行くかというのは家族構成により、決して家長だけに行く資格があるわけではありませんでした。家長制が厳しくなったのは、近世以降のことですから。特に冬の寒さが厳しい東北、温泉場が多い中部、四国山地、九州山地では、田植え後の泥落としが盛んに行なわれました。 温泉に行ったからといって毎日酒を飲むわけでもなく、治療のために入るわけでもない。労働を休み、共同で保養する。私の記憶でいうと、昭和50年代の秋田県・玉川温泉、後生掛(ごしょがけ)温泉ではまだこのような保養で訪れる人を見ることができました。昭和50年代といえば、つい最近のことです。 湯船はあるけれど、排水が下を流れているので、オンドル形式ですね。その上に筵(むしろ)を敷いて、みんな自炊で泊まり込んでいました。気の合った者で飲みながら、お. 神崎宣武 文明としてのツーリズム 歩く・見る・聞く、そして考える : 神崎宣武 | HMV&BOOKS online本サイトはJavaScriptを有効にしてご覧ください。. 神崎 宣武(かんざき のりたけ、1944年 6月28日- )は、日本の民俗学者。.

神崎, 宣武(1944-) シリーズ名: 岩波新書 ; 新赤版 1199 書誌id: baisbn:. た」のです。思いついたきっかけは,神崎宣武の 『文明としてのツーリズム』を読んだことです。 catsと観光創造専攻の立ち上げの際に,私なりに 観光分野の研究について少し勉強をしたのですが, 神崎さんの本に「観光の旅とは,異民族,異文化. 商品について背やけあり状態ランクについてこの商品の状態ランクは、C 中古品として考えても、気になるキズや汚れなどがある状態の商品です。当店の状態ランクの意味は、初めての方へ、をご確認ください。送料全国一律360円です。※配送方法は、当社指定のみになります。※同一商品でも.

神崎宣武 著 言語: 日本語 出版情報: 東京 文明としてのツーリズム - 神崎宣武 : 角川学芸出版 東京 : 角川グループパブリッシング (発売),. 少し話題が逸れますが、「宿改め」は城下町では町奉行所が、小さな宿場では代官所が行ないました。時代が下ると形骸化するのですが、年に一回であっても、そのときちゃんとしていないと営業停止となりますので、宿の主人にとっては怖いことでした。 幕府の施策は、このような間接管理が上手だったんですね。宿屋の主人に責任を負わせてしまう。この他にも、村の坊さんには戸籍管理をさせ、年貢の徴収は庄屋や名主に、警察は十手持ちにさせる。江戸時代が長く続いたのは、権力者が末端まで出てこないことに一因があったかもしれません。今は逆に、全部お上任せになっているわけですが、本来、日本的な規範では、土地のことは土地で管理するものでしょう。 ですから日本社会では、「長」という役につくことは、リスクの大きいことでした。よく地主と小作の対立というけれど、言われるほどの対立はありません。もちろん地主は大きな家に住んで使用人も多かったのですが、年貢の徴収は地主が代理管理していたから、払えない者が出ればその帳尻は持ち出しで補填していました。 さらに、菅江真澄(すがえますみ)(1754〜1829)や、古川古松軒(ふるかわこしょうけん)(1726〜1807)など、当時の文人墨客の旅日記を見ると、泊まるのは庄屋や名主の家です。宿泊中の負担を庄屋は全部賄い、出立するときは簡単な路銭を渡して送り出す。だから、日本中どこへ行っても、掛け軸やふすま絵や額が残っています。今で言う企業メセナを、それぞれの土地の顔役がやっていたわけです。そういうサロンのネットワークがあったことも旅行文化の背景として考えておくべきでしょうね。 庶民は、時代劇で出てくるようながんじがらめの拘束はなく、団体で泥落としに行ったり、伊勢参宮したりということが、規模に見合った形で行なわれていました。治水家としても有名な田中休愚(きゅうぐ)という幕府の役人が書いた『民間省要』という記録があります。お上の側から建て前として書いているのですが、「旅に出てはならん、遊んではならん」と書いたあとに、「ただし回国修業として巡礼、信仰の旅に出る者多数あり」と記し、さらに「農民は労働の後の湯治あり」と書いている。結局、公に認めることはできないけれど、寺社詣でと温泉湯治は、黙認される2つの方便だったということです。 江戸時代の制度は、間接統治と連帯責任ですが、それに沿ってい. See full list on gekkeikan. 歴史・地理(本・コミック)のネット通販ならセブンネットショッピング。セブン‐イレブン店舗受取りなら送料無料&24時間. Amazonで斎藤 英喜の読み替えられた日本書紀 (角川選書)。アマゾンならポイント還元本が多数。斎藤 英喜作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。.

今回のテーマは非常に大きいものです。このテーマでお話をする適任者といえば、ご存命なら、坂口謹一郎先生を措いて他にはないでしょう。しかしここではあえて私なりに、甚だ未熟ではありますが、このテーマにいどんでみたいと思います。 そもそも私が「酒の歴史」や「酒の文化」に興味を持ち始めたのは一体、いつ頃だろうかと、ふりかえってみることにします。 まず、私がこの業界に入った戦後間もない頃は、いまから思うと、酒つくり技術もまだまだ未熟だったという感じがします。 火落ち、酒が腐敗するということについては、今はもう研究をする人さえほとんどいないぐらい少なくなっていますが、当時は蔵内の貯蔵酒にも、製品にも、ずいぶんと火落ちがありました。また、発酵中のモロミでも、全国的な大腐造という事件もあり、私もあちこちの酒蔵で、しばしば腐造したモロミを実際に経験しました。 ただ、これらは、昔から酒づくりにつきものの異状現象として、江戸時代以来、業界に数多くの経験があり、明治以後、多くの学者による研究も重ねられていました。おかげで、私なども、幾多の先達の助言を得ながら、研究を進め、その対策を確立していくことができました。 しかし、これらと違い、戦後になってはじめて起こった難問も次々と出てきました。 当時、そこここの蔵で、切り返し時に、米粒の表面にひどい粘りがでてくるヌルリ麹(スベリ麹)という異常現象が、忽然として発生しました。 こんなことは、先輩達もこれまで経験したことがないという。これが大きな問題になり始めました。真夜中「ヌルリ麹がでたから、すぐに来てくれないか」と提携先の杜氏さんから電話がかかってきて、その対策に走り回ったこともありました。その原因を知るため、まず麹のつくり方で、何が戦前と変わったのかを調べる必要が出てきたのでした。 次に起こったのは、店頭の一升壜が、火落ちでもないのに、どんよりうす濁りとなり、もやもやとした沈殿ができたりするという異状現象、いわゆる白ボケ問題でした。これも、戦前は樽詰が多かったせいもあって、消費者にはよくわからず、問題にはならなかった現象です。では、この本体は何なのか、その対策は、ということから、私共は緊急課題として研究を始めました。同時に、醸造試験所の秋山さん、大阪局の川崎さん、桜正宗の杉田さん、菊正宗の森さんなどに呼びかけ「白ボケ研究会」なるものを結成、. それから浴槽の大きさも、温泉に魅力を感じる大切な条件の一つになりますね。日本人は、温泉というと大浴場でないと納得しません。内湯では入った気がしないのです。つまり、大衆浴と温泉が結びついている。この結びつきの背景には、日本特有の湿気と仏教の影響があります。 現在残る寺には、坊さんたちが入った沐浴堂しか残っていませんが、「一遍聖絵」などを見ると、坊さんが逗留し、人々を教化するために踊り念仏の他にもいろいろなイベントを催しています。その一つとして、湧かした湯を樋で流し、沐浴堂へ入れ、そこに信者を浸からせていた。つまり、仏教の布教の中には、念仏を唱えるだけではなく、中世までは薬事療法や入浴療法が一体となっていたわけです。その沐浴は、同時に何人も入る大衆浴でした。 去年の10月に韓国の温泉視察に出かけたのですが、お隣の国なのに日本と韓国では、大衆浴への意識がまったく違います。韓国では、他人と一緒に風呂に入る習慣は一部の社会を除いてはなく、温泉も例外ではありません。日本人の温泉好きは海外でも有名で、韓国では日本人用の共同風呂を造り、新たに日本人観光客を誘致しようと努力しているところです。 台湾は一周旅行が主流ですが、そこに知本(ちぽん)温泉をコースに組み込み始めています。こちらも、すぐにブレークするでしょう。. 温泉のもう一つの新しいスタイルは、外国人向けのリゾート地です。明治政府がつくったツーリストビューローは、「外国の要人たちを庶民社会に混入させない」ために、外国要人向けの特殊な高級リゾート地をつくって隔離する機能を果たしていました。観光立国の意味あいとは、まったく違います。当時は箱根や日光、湘南、関西でいうと堺の海岸、芦屋、宮島などが開発され、洋式ホテルが造られました。温泉で外国人観光客向けの保養地となった所に、今日でも品格を持った温泉旅行に耐えるホテルが残っています。 東京の近辺でいいますと、日光の金谷ホテル、箱根の奈良屋ホテル、富士屋ホテル。共通しているのは、国立博物館のような建物ですね。 また、ツーリストビューローは、温泉地だけでなく近辺を外国要人向けに別荘分譲もしましたから、格上の別荘地として残っているところもあります。 このように温泉は、いくつかの要素が重なって発展、変遷を経ましたが、農家の泥落としからなる温泉は連綿と続いていて、情報化時代に入ると「秘湯」として取り挙げられるようになります。その契機が、ディスカバージャパンでした。.

縄文体質は未来を拓く 第6回~BIは”本来の性充足”を開放する。(/09/24) 縄文体質は未来を拓く~第5回 BI時代の「信仰」とは人へのあくなき同化から始まる(/09/24). . 神崎宣武編: a5判/290頁/2,500円 isbn. 温泉についてだけではありませんが、明治時代の風俗には、軍隊が大きい影響力を持ちました。 女遊びでも、お金と時間の無駄とも見える消費が粋だったわけで、江戸の遊郭・吉原の大店では、3回上がらないと手も足も出せませんでした。まぁ、ある種のお見合い期間があったわけです。ところが軍隊が客になることで、宴会の形式が変わり、宴会の手順も簡略化されました。 岡山に中島遊郭という所があり、そこの楼主が江戸時代生まれで、明治期をすごして料理屋兼置屋をやっていましたが、その日記にも「明治では、役人と軍人がいばる」ということが書いてあります。 日清・日露戦争の勝ち戦を経て、官僚閥、軍閥が力を持っていく過程で、宴会が非常に多くなりました。出兵、凱旋と、何かにつけて宴会が開かれました。無礼講というのは、礼講があって成り立つ言葉ですが、すべてが無礼講になってしまったわけです。 飲酒の習慣も、軍隊に行った人が帰郷することで全国に広まりました。もともと農村社会では酒は行事のときしか飲みませんでした。それが日常的に飲まれるようになり、さらに鉄道ができて酒の商品流通も発達します。 日本の酒造量は、明治30年代に急速に増えています。祭りのときの酒は自家醸造ですから、村人相手に酒をつくっても商売にならなかったのに、戦争を機に、全国津々浦々に酒蔵ができたのです。 ただ、こういう軍人の宴会と無縁だった遠隔地の温泉は、古くからの農民の保養場としての泥落としが近年まで残ることになりました。ですから、明治の文明開化によって、温泉地も変わる所と、変わらない所に分かれてきます。. 書店発売日 1997年03月29日. Culture and humanities selections. 「行くの地蔵に帰りの観音」というくらいで、行く時は団体を崩さずに伊勢まで行き、帰りはばらばらで遊びたい奴は遊ぶ。宿場町は風俗が規制されていましたから、1つの旅篭に飯盛り女が2人、と決められていました。 しかし温泉地はその法規制がありませんでしたから、箱根の湯本とか有馬、諏訪といった大きな温泉宿場には垢擦りをする女性が現れました。「湯女(ゆな)」という女性が男について湯殿に入り、背中を流し垢を落とす。これも日本の特徴ですね。これは時々禁止もされますが、形を変えて、また営業が再会される。で、馴染めば当然話がそういう風にもなるわけで、膝枕でお酒を飲んだりと。 湯女が禁止されると男の垢擦りが登場し、これが「三助」です。.

角川ソフィア文庫 || カドカワ ソフィア ブンコ ; 365 書誌id. フォーマット: 図書 責任表示: 神崎宣武編 言語: 日本語 出版情報: 東京 : ぎょうせい, 1985. 奥付の初版発行年月 1997年03月. 神崎 宣武(著) 四六判 224ページ 上製 定価 2200円+税 isbnc0039 品切れ・重版未定. 神崎宣武著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : 岩波書店,. 神崎宣武著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : ぎょうせい, 1988. 7 形態: 301p : 挿図, 地図 ; 21cm 著者名: 神崎, 宣武(1944-) 書誌ID: BA以下のLINK先でもこの図書の目次等の情報が参照できます。 紀伊國屋書店BookWeb:.

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